12月 13

死ぬことの意識

ここ最近バタバタしていた理由の一つとして祖母が亡くなったのですが、とうとう私にも

「海外で暮らしているうちに、親関が亡くなる」という日が来てしまいました・・・。いつかこうゆう日がくるだろうと日本を発つ時に考えましたが。

嫌だなあ・・

祖母の場合は自宅で寝ている間に息を引き取るという、亡くなり方としてはかなり良い形だったのではと思うのですが、その時思い出したのがジャスティン(夫)の祖父が亡くなった2年前の事。

私はその時旅に出ていて、旅先から「実はおじいちゃんが倒れた」とジャスティンから聞いて

「でも、意識もあるし、大丈夫」と聞いたのでそのまま旅を続行してたのですが、翌日聞くと入院先で脳梗塞になり、脳死と判定。

生前、延命治療しないでほしいというメッセージにサインを本人がしていたことから、脳死と判断された1週間後に装置を切る予定になりましたとメールが届きました。

それでは急いで帰りますと伝えると「いや、もう祖父は亡くなっているから大丈夫。予定通り帰国してください」と返事がきました。つまり脳死しているので彼はもう死んでいるという認識だということですね。

そんなわけでその1週間の間に祖父の生前のスライドショー(お葬式で流すもの)を作ったり等充分なセレモニーの準備をして、

装置を外す日=亡くなる日

という状態だったみたいなんですが、私これすごく驚いたのね。

なんていうか、ジャスティンの家族って昭和の日本人みたいな感じで情に厚くて姑も優しいし信心深いし

でもこの死に関してものすごく受け入れが合理的な気がして、私この時初めて「あーなんかメンタリティが違うな」と思いました。

私だったら、自分の父がいくら生前にサインしていても、やっぱり奇跡が起こって目が覚めるんじゃないか?と期待してしまって、1週間で諦められないと思うけど、この状況を判断したのが祖父の妻であるおばあちゃんだったということでね。

なんというか、個人の尊厳にたいする意識の成熟さとか宗教観など、色々考えさせられました。

死ぬという事についてはあまりネガティブにとらえていないけど、誰かとお別れになるというのは寂しいことですね。

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